前提論文


一つ前の記事の「私の決意」から読んでください。
先日書いたように、自己採点満点が出るはずもないものをなぜ書き上げなければならないのか、それは、この世の全てにおいて継続や努力が絶対的に成長と結びついているからです。

練習、または習慣付け、例え他人からぼろくそ言われるほど下手でも続けることによって自分の中で必ず理想に向かって行くのです。

しかし、逆に身に付けたくないことも継続により身についてしまうことも多いです。
例えば、毎日のように二度寝をしていると次の日も、また次の日も、といった具合になかなかやめられなくなるのです。

これは一種の依存のようなものにも感じます。

話を戻しますが、特技や個性は、子供時代やその人が今までどんな暮らし方をし、何を重要視してきたかが著しく構成するのでしょう。

私はつい三週間ほど前に老若男女が今までの人生を他人に語り合うというイベントに参加させていただきましたが、過去にどんな経験をしたかなんてその人が表現する言葉や図などで説明されたけれども、伝わったのは言葉だけでした。

自分の身に何が起こったかどうかを完璧に知るのは自分のみです。

ゆうなれば”その人らしさ”を日々練習して生きてきたが故に個性や価値観などが育まれていくのでしょう。

では少し意地悪な質問です。
もしもあなたが、今まで強く大事にしてきて、あなたを構成し始めていたはずのものが社会的に批判されたり、自分の中で本当に正しいのかどうか疑問を持ち始めたとしたのなら...

今まで健康食品として飲んでいたはずの薬が人体に有害で依存性の高い違法薬物だったとしたら?
好きだった人が殺人犯だったとしたら?

戦争中、幹部に従順だった側近が死刑になるなど自分も聞いたことのある話です。

これらはまだ世間的な評価が混じっています、
では、自分の中だけで信じたものが正しくなかったということに気づいてしまったのならどうでしょう?

自分に疑問を持つと?

もしもあなたが最も美しいと思う生き方をしていたとします。
例えば、進学校に入り、成績も優秀で部活動にも打ち込みながら友達をたくさん作ることが最も美しいと思っていたとします。

きっと大勢の人たちに尊敬され、憧れの的になることでしょう。

何を根拠に美しいのでしょうか?
己の中で作られた美論がたまたま世間的な美論と一致し、運良く理想に近づけただけです。

然し、クラスの端でいつも黙り込んでいる人が対義語として成立するかというと、全く成立しないのです。

僕の場合、中学生の頃に学校ではそれこそクラスの端っこにいたけれども、通っていたプログラミングスクールのおかげで東京のみならず全国に友達がいて、孤独など微塵も感じず、最早クラスの中心の人物を見下したりもしていました。

私の中学時代のケースはなかなか特殊だと思っていますが、人の理想なんて千差万別、人間との交流を一切断ち切り行動するもよし、勉強を放棄してゲームをするなども必ず自分自身で正当化できます。

これはその昔私が考えていたことですが、人は自分の幸福しか感じることができないので、さらに幸せを感じる能力にも差があるので、地球上の誰でも世界一幸せなんだということがあり、(自分は今でも自分のことが世界一の幸せ者だと思っています)不幸だと嘆く人は当時のコンディションや心の余裕がない為、感じる力が多少劣ってしまているだけだと。

このように述べていると、他人の評価で自分を劣等として見ているのがナンセンスに感じます。

話を戻すと、クラスの端にいる人間が、隅の方が生きやすく、中心の人物になにも感情を持たずにただ自分を満足していることがありうるということです。

他人からぼろくそ言われても、続けていれば答えは見えるのでしょう。

所詮万物は、止むを得ず今の状況に至っているのです、他人が劣等として見ているのに自分も自分を劣等として見たら、ナンセンスではないでしょうか?

しかしながら、人間は厄介で、道徳やら倫理などで時折本能を押さえつけます。

勿論、倫理や道徳は守るべきです、法律も条例も私は絶対に犯しません。(それは私が法律の中で生きているからであり、法律がなかったのなら守っていなかったかもしれません)

そもそも、法律というものは道徳に基づき、道徳に反する人がいなければ本来必要がないのではないかとも思ったりします。



刑罰、あなたが法律を犯さない一番の理由は、刑罰の存在があるからでしょう。

しかし、人間は人間が道徳を守るために法律を作ったはずなのに、刑罰を受けたくないから、”仕方なく”法律や道徳を守るという方程式が昨今の時代では出来上がっています。

道徳を一人一人守れる能力を所持していたら、法律なんて必要なく、自分を劣等として見てしまうきっかけがなく、少なくとも今より安易に自分に自信を持てるのではないでしょうか?(勿論、殺人や強姦を今の世の中で認めるわけにはいきません)

少し話がずれましたが、他人の評価なんて、全てを取り払うと法律や道徳という共通意識である義務、人類の威厳とでも言いましょうか?

全てを取り払った後に残るのはそれだけです。

またしても厄介で複雑なのが、道徳観に関しても人それぞれ異なるということです。
私は、以前このブログにも書いたように、「多様性」を重要視している学校に所属しています。

あくまでも、自分自身だけで行動して、他人に口出しなどせず、自分の個性、美論、理想、道徳観は必ず世界の誰かにとって最も汚いもので、別の誰かにとっては最も美しいものなのです。

世界の誰かにとって、あなたはきっと一番尊敬されているでしょう、しかも一人とは限りません。

僕はあなたを尊敬します。