青春移植 ~戻らない過去に捧ぐ~

私は青春という言葉を度々避けて過ごしている。
性格上、他人に言われることについては基本的に何も口出しをしないのだが、自分から青春という言葉を使うことは少ないと思う。

辞書の定義では

"若い時代。人生の春にたとえられる時期。希望をもち、理想にあこがれ、異性を求めはじめる時期。"

とあるが、何事にも定義されていない、使われる上で曖昧に定義される意味が付きまとう。

私の中では、青春という言葉にはどうも「戻れない過去」という印象が強い。

「青春してるね」と言われることはとても嬉しいのだが、自ずから「今めっちゃ青春って感じ」と言ったような覚えはない。

青春はなぜ終わってしまうのか?そして、いつ始まったのか。

私の日々を青春なんて言葉で過去にしたくない。

私は今、(以前にも書いたかもしれませんが)私の人生で初めて未来よりも過去よりも今に1番魅力を感じている、今に満足しているのだ。

しかし、大人は「今のうちに楽しんでおきなさい」なんて言ってくる。
さして年齢が変わらないはずの大学生にも言われる。

17年間生きてきて、やっとの思いで辿り着いたはずの今なのに、失うのが早すぎる。

確かに、高校生活は後1年半もすれば終わり、1番青春という言葉に近いとされる年代的分類が変わる。

私は決して過去に戻りたいとも思わないし、今に対する希望を全て未来に託す気も一切ない。
私にとって今は必ず過去よりずっと良いものである。

けれども、所謂右肩上がりの生活が、いつ終わってしまうのか見当もつかない。

(そもそもこんなことを考える時点で、私の「今」に対しての素直さが欠けているのかもしれませんが、あくまでも客観的な自己分析です。)

過去に憧れる未来に不安を持つ私は、日々を振り返らないことにした時期もある。

これは、ごく自然に私の中で起こった行動であった。

すると、親しい人達が、過去のことについて語る時、昨日を超える何かに直面していないのではないかと考えるようになった。

事実として過去は戻らない。

1つ断っておくが、私は決して過去や思い出に浸る人間を否定しているわけではない。

むしろ、過去や思い出を遡ることは、美しい過去があるという、とても素晴らしく誇りに持つべきことなのだ。

理想上では過去、今、未来の全てにキラキラしたものを見出すことであろう。

だが、人間は(少なくとも私にとっては)そこまで器用ではないし、完璧でもない。(だから人間が好きなのです)

私の現状は、未来にのみ、不安を持っている状態だ。

過去は、「今」の生活に隠されていて、悪い記憶なんて殆ど蘇らない。

未来は、進路の事などのせいで、あらゆる保証が無い状態である。

だが、未来について不安を覚えている時期、今が戻らない時期なのかと葛藤すること自体が、「青春」という言葉に本当に当てはまっているのかもしれない。

自分を信じる事、自分が正しいと自信を持つ事、他人と自分の境界線をはっきりと置き、私はこの結論に辿り着いた。

私の中では、幸せしかない今後の人生なんて退屈で仕方がない。

少しの不安が胸にあり、3ヶ月に1度くらいに病むこと、上手くいかないことが悪い事ではないし、上手くいってることが良い事とも決して限らない。

戻らない過去を青春と呼ぶならば、未来もいつか戻らない過去になる。

「あの頃が1番楽しかった」と、嘆いてるかもしれない未来の自分は、おそらく幸福である。

私が今、そして今までで培ったこの最高の日々で、困難に対して少しでも乗り越えられる材料になるはずだ。

人はいつか死ぬ。

未来が全て過去になった時、私の過去を見て未来や今に起こっているあらゆるものに対して希望を持ってもらえる人間になる。

青春をリレーし、受け継いで行く。

今だよ、今なんだよ。

世の中には、たった今生まれた人、ビルの屋上で涙を流す人、他人に全て捧げている人、学校に行けない子供達、乞食をする老人。様々な人がいる。

全ての人間に、今が平等に与えられ続けている。

死後の世界には興味がない、けれど、あと10分で死んでも良い、僕の今と過去と未来は臓器移植のように誰かの為になる。

写真は僕が1番素直に幸せを噛み締めた表情を写せたものです。(山手線一周完歩の瞬間)
親友であるウルフ君が撮影してくれました。

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