死んでいるように見えるかい
心に焼きついた夕日がありありと目前に蘇った恐ろしさが君たちにわかるだろうか?
世界平和を歌うアーティストの声に訳もなく涙を流したことが今日までの君たちにあっただろうか?
東京へ上京してから2年の月日が過ぎたらしいね。
いつか必ず、家族に胸を張って会える、そんな日がきっと来ると信じていた。
明日の僕は今日の僕と同じだけれども、未来の僕は偉いんだって、純白な心をドス黒い大東京へ放り投げた。
それでもまだ粋がって「いつか必ず」「今に見てろ」とか言ってる部分はそのままで、何にも根拠のない気持ちだけが僕を動かしている。
10年前の今日、覚えていないけど何をしても天才だったんだろうな。
実際僕は小学校3年生くらいの時からアニメ制作にハマり、無料で使えるソフトを駆使して色々遊んでいた。
その時は勿論ちやほやされたよ、だけれども大人になればどんどん変わっていく。
小さい頃には何をしても天才で、個性っていうものがギラギラ光っているんだけどね。
生きていくうちに人は転んだりして尖ってた部分も削れてみんな似たように丸くなるんだ。
これが大人、大人ってやつなのかい?
尖った部分を守りきるに僕はまだ子供すぎる。
昔の僕は「削れた部分がなくても僕ということがわかる、むしろその部分がなくても生きていけるという事に自信を持つべきだ」みたいなことを言っていたんだ。
何にもなくしちゃいないよ、ただ去年浜松の中田島砂丘から見た夕日が僕の胸をぶっ刺してきたんだ。
信じられないけど、忘れていたけど、切ないんだ。
僕は、受験生になりました。
春は嫌だね、みんな変わるんだから。
何かが変わるかもしれないって子供騙しの迷信をすっかり信じちゃって、何も変わらない僕を僕だけが見ている。
悲しみを感じる自分に少しだけ惚れていた。
最近はやっと前向きな僕を取り返してる。
改めて、僕はまだ子供だよ。
同年代を見渡せばまだまだ僕は尖っていたんだ。
高校生っていうのはまだ何をしてもギリギリ天才だった。
僕は年相応の「尖ってる奴」だった。
社会不適合者の僕は健全な高校生の青春を1年だけで終わらせてしまったんだ。
今の僕はありがたいことに様々な所で人の役に立たせてもらっている。
なんでもいい、生きていると「後輩」というものができる。
僕はその後輩たちの中である程度慕われていると思っている。
あの頃の僕と今の僕は何にも変わらないと思っていたけれども、研修中の後輩を見ていると思い出す。
止まっているように見えて僕だって進んでいた。
努力だって他人以上に死ぬ気でやってきたんだと強く実感した。
なんでこんなことを忘れていたんだろうな。
僕の努力を軽視した奴が何人かいる。
特に努力をした記憶がなかった僕にも少し憤りを感じた。
「高校1年生で上京すれば俺もコイツみたいになれた」
ふざけるな。
もしも名門校に入ったとして、
「やっぱり〇〇生は凄え」
などと言われたら誰だって遺憾だろう。
僕より実力のない人間が僕と同等の実力者のように振る舞われた時も嫌だった。
しかし、そもそもモノの凄さがわからない人間も少なくはない。
健全な高校生は基本的にわかっていないような気がする。
大人になる前に、大人の土俵で戦えるよう備えるべきだよ。
僕は、受験生になりました。