大好きな世界へ

いかがお過ごしでしょうか?大抵のブログなどはこの一言で始まる。
書き出しは重要だ、川端康成の「雪國」や夏目漱石の「吾輩は猫である」などはあまりに有名であり、後世の評論家達に「あまりにも有名だが」などと評価されている。

しかし、僕のような人間が書いているブログでそれほどの完成度を求めている読者はいないため例え、前述の作品を超える書き出しをしたとしても超えていることに気づく人間はほんの一握りだろう(僕の感性を理解してくれている大切な友人が僕にはいるのでとても感謝をしている)

さて、大型連休が終わりそろそろ所謂普通で退屈な日々に思い出達が飲み込まれてしまっているだろう。

毎日が繰り返すとはなぜ退屈なのだろうか?もちろん当たり前のことを当たり前にできる生活は素晴らしいことだが繰り返しの日々から脱却するためには疲労が邪魔をしているのではないかと考えるもののやはり自分はまだ若いので疲れをそれほど感じたことがなく、この原因について深く考えることはできません。

けれども自分はもはや充実のおかげで(それだけとは限りませんが)自分の生活における失敗、悪いことに対して自分を劣等としてみることは煩悩の数よりは減らしたつもりでいます。

なので繰り返しの日々についても同じで、自分の場合「こういう日があってもいいや」などと割り切ろうと努力しています。

その努力をしようと思ったのは、今通っている高校が特に重点を置いている「多様性を持つ人材を育てる」といういかにも新設高校らしいカリキュラムの一つと似ていると感じました。

例えを一つ、未熟な自分なりの経験を含めて説明しますと潔癖症の人がそうでもない人に対して自分と同じレベルの清潔さを求めるか否かのようなものであり、求められた側においては(自分はこちら側のことが多いです)自分の欠点を真摯に受け止め一人の場合はいつも通りだとしても他の人間と接するときも指摘されたことに注意しながら過ごし、成長に変えることが少なくとも自分の中では目指すべき人間像になりました。

この場合少しわかりにくいですが、つまり自分は相手の”求められた自分”になる事が出来るのです。

しかし、求める側の場合においては自分と同じレベルを求めたとしたら人類の根本的な問題を解決できない気がするのです。

なので、求める側に必要なのは謂わば寛容さのようなもので「自分はやらないがあなたがやることについては気にしない」といったようなもので例えば人の買い物などに口出しを一切していません。(とはいえ幸せになれる壺を買われたら話は変わるw)

そして自分の行動においてもその多様性を適応したのが自分を劣等として見ないという楽観性だったのでした。

この頃になるとエジソンが唱えた有名な「失敗は成功のもと」という言葉にも通じると自分は強く感じるようになったのでした。

それは数ある日々の選択において今自分が選んだ道が最もベストな選択だったということで、もう少し噛み砕くと、失敗しなかったとしてもその世界線(道)は今の世界から見る事ができないのでその後起こった成功があったのかどうかは誰にもわからない(どんなに小さなことでもいいんです)ため今が自分にとって最も幸せということです。

全人類の失敗は必ず何かにつながる、今しか生きれないのです、これは不幸と幸せが平等だとかそんなくだらないものではなく明らかに自分で左右する事ができるのです。

平等ということを提唱したらあなたは不幸と同程度の幸せしか感じる事ができない、感じる能力にルールを作ってしまっているんだ。

そしてそんな理論を嘘だと嘆いて死に物狂いで生きているのは不幸の方が多いということを肯定してしまっているからである。

なので、半分以上を自分が周りにとって幸せな単語で話せば結果や他人からの評価が変わらずともこの僕が変わろうとしたあなたのことを尊敬する。

飛べない人間が飛ぼうとするより大地を這いつくばって、もがき、踊り狂った方が良い。

貴族が庶民になりたくても庶民の反感を買ってしまうため貴族をやり抜いた方が美しいのである。
ハッとするようなことに気づいて世界を自由に回そうじゃないか。
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