心奪う街

東京へ来て一年、もうじき17になります、旧友と会うと間に流れた時間に差を感じたりします。
ずいぶん垢抜けたと言われ、新しい友人に一年前の写真を見せると口を覆って比べられます。
今の自分は人を軽蔑することもなく友人たちには感謝の気持ちでいっぱいです。

東京に染まる、穢れるとは一体なんでしょう?
こんなことを言うのはいつも自分より年上な方が多いです。

社会の波、都会の突風が1人の人間の硬い岩の形を一度だけで変えることが出来たでしょうか?

潮が引き、空が晴れた時、何が残ったか?

きっとどこかで波は暴れ風は何かを奪っていることに違いないのです。

けれども、嵐の後に1人残された岩は次の嵐が起こるまでの間1人考えました。

嵐の中で身を削りながらも自分を頼りに自らの懐に迎え入れた弱者の事、本当に自分でなくてはならなかったのか、

愚かにも嫌悪を抱き変わる自分と変わらない自分、頼られることと利用されること。

生まれた意味さえ見失った時が僕らには必ず存在して無くしたものについても考え始めます。

削れた部分は確かにある、
失くしてしまった、
果たして本当にそうでしょうか?

僕らは硬い。

芯の部位は残っていて嵐を耐えたことで名声を得ただろう。

失ったもの、だけどもあなたはまだ僕のことを僕とわかる。

逆に失くしたものが無くても生きていられること、希望を失くしても生きていられることを胸に刻まなくてはいけない。

人間にはそんなことを感じることが出来ずにただひたすらに悲しみに暮れるしかないのだ。

失くしたものがないまま生きる不安より失くしたものが無くても生きられる自信を。
辛いかもしれないが感じて欲しい。

奪われたのでは無く、磨かれた、僕らこれからも輝いている。

山梨には次の夏にまた帰ります、結果的に僕の穢れは自然現象なのです、僕は田舎者です。

ここでの人間模様は大自然を流れる水の様である日突然流れが止まったり、流れを悪くしていた岩が無くなりまた新たな流れを作ったりと、思い返すと侘しさが募ります。

これが僕の過ごしている街です。

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