桜が咲くだけの日々

最近このブログの更新頻度が上がったと思ってる方々へ、
これは毎年四月になるとやる気が出た上で「五月病」と呼ばれるものになる典型的なケースで四月に張り切り過ぎて、五月のGWあたりから急にやる気が無くなるという現象の一つであり決してこのブログの更新頻度が維持されるわけではないということだ。

実際今まで何度も五月病を経験してきた。

今年はよくわからないがやる気は特になく五月病になってもやる気で手にしたものが5月以降も残ればいいかな程度の考えで生きている。
やる気が起きていないせいで四月一日を過ぎてしまいその日は呑気に令和の号外を探す旅に出ていた。

記念の日を通り過ぎた後、四月四日にも入学式で新入生代表として宣誓挨拶を行なっていた。

合格が決まった後に問い合わせフォームに連絡して「俺にやらせろ」的な感じの交渉をしたのを覚えている、交渉成功後に母親と全く別の理由で喧嘩したことも覚えているw

俺はこの一年全体が濃いというわけではなく1日1日に出来事がたくさん詰まり過ぎてもはや「成果発表会すごかったね!」とか言われてまだ一ヶ月経ってないのかと驚いたりしている。

だからこそもっと更新したいが残り少ない覚醒期間をお楽しみください。

実際ブログを書くのは困難なことであり前回のブログから描き途中でボツになったブログがいくつかある。
無駄に時事ネタを書くからいけないのである。

文章を作る上で素人はどんなに壮大な物語が浮かんでいても完成した時には原稿用紙100枚程度(40,000文字)だったという話はよく聞く話だ。

かといって「どうせ作っても黒歴史になるだけだ」や「全部丸パクリになっちゃう」などといって作らない奴よりいじめの原因になろうと著作権法で訴えられようと素人が自分がやりたくてやったならそれは褒め称えるべきであるし、作り続けることによってそれが作者のスタイルとなり結果的に悪い結果は生まれないはずである。

私は今まで文章ではなくどちらかというと歌詞とポエムの中間あたりの何かを作っていた。

今年に入ってから大の読書嫌いだった僕が去年の11月頃くらいから人工知能の技術書を片っ端から読み漁り、立ち読みもして猪突猛進で知識を取り込んでいたことにより「あれこれ読書もいけるんじゃね?」と思い試しに人生で唯一読みきったことのある本であった太宰治の「人間失格」からの繋がりで「斜陽」を購入してみたのである。

当初は読みながらも読める気力と時間があるなら技術書読んだ方がいいような気もするけど的な雑念があったのだが、太宰治の独特の物語の主人公が著者となるスタイルに読みやすさを覚え、身長が徐々に伸びることにより伸びたこと自体に気付かないのと似た感覚で没落していく貴族たちの世界が、読んでいて「早く先を読みたい」という今まで感じたことのなかった感覚を覚えた。
太宰治の作品の多くは読み終わった後の客観的視点で見た途端に現れる、先ほどの例えだと身長が伸びたこと自体が魅力である。

そして読み終わった後に兄貴が感動したという坂口安吾の「堕落論」も読み始めた。

今までは歌の歌詞などでおそらく文章力が鍛えられて血となり肉となっていたが、おかげで俺はさらにパワーアップした。
読書嫌いだったため「俺は歌の歌詞とか読んでるかいいや」とか周りに対して言っていたのだが基本的に歌の歌詞では例え伝わりにくかったとしてもあえて遠回しの言い方を選び聞き手に自由な解釈を持たせるが、文学(?)では直接的な表現は好まないかもしれないがやはりどんなに格好の良い比喩が浮かんだとしても「そこにそんな長い表現入れる?」みたいになってしまう。
そのため歌詞は名詞を後ろに置くことが多い。(調べたら体言止めとかいうらしいです)
サザンオールスターズの「涙の海で抱かれたい」の「波と戯れる裸のビーナス〜さよなら僕の愛しのangel」という部分とかまさに典型的な例である。

俺のAI「ハハワモン」君もその辺に気づいてくれていることを願う。

このブログで何が伝えたかったのか、三日に分かれて書いているためにわからなくなっていたのだが回収すると続けることの意味や何事にも今後に役立つ経験になるということだったのであろうが、これだけでは当たり前すぎる。

当たり前を当たり前にこなせてこそが勝負だ、基礎がしっかりついたということは自分にとってとても誇らしいことであり自信である。

コメントくれたら喜びまスワン🕊