大人になるということ from2019/3/26

年度末、いよいよ平成最後旋風にも歯止めがかかってきた。
私は平成生まれなため普通の時代が変わる瞬間を知らないので次の時代が終わるまで生きて”喪に服す日本”とやらも一目見て見たいと思ったりするが実際今回は最も特殊な時代の変わり方だそうでこれからはもう見れないだとか...

世間のことなんて俺のブログに書いてしまうと大人気ブログが故にYahoo!ニュースよりアクセス数が上回ってしまい謎の力によって抹消されてしまうので僕の周りの出来事を赤裸々に綴ろう。

年度末といえば卒業の時期であり俺の場合は進級の時期である。
つい昨日の話だが兄貴が早稲田大学を卒業して俺はカラオケに行き尾崎豊の「卒業」を替え歌を交えて歌ってあげたりした。

我が高校では創立3年目にして初めて一期生が卒業するということなので力がこもった盛大な卒業式が執り行われたらしい。

仲の良い友達も何人か卒業してしばらく会えない日々が続くだろう。
我が寮でも多くの留学生が日本で学んだ知識を糧に母国で再び活躍する日々のために帰国する友達は少なくない。

地元に帰る友達の引っ越しの手伝いをしたのだが、大都会の片隅の住宅街の一角にあるマンションの一部屋で行われた一年の生活の終焉は匂いや空気感、部屋の明るさまでもに長い時の深みが現れ、人間味が溢れる色に染まっていた。

今年に入ってから兄と姉とその友達の三人の引っ越しの手伝いをしたのだが、やはりそれぞれ感慨深いものがあり僕はその度に自分のことのように感傷に浸り窓の外を眺めながらタバコの煙を吐くような細長いため息をついていた。

僕は今多摩川のほとりにある街に住んでいる。新宿へのアクセスが最高で定期券内ということもあり、あまりこの町のみで完結する日々を送っていないのだが駅から遠ざかれば遠ざかるほどにどこか懐かしい都会と違う空気を感じる。
駅の改札やホームに踏み入れるとすでに空気は都会へと変わる。
違いが言えるのはどうしてだろう...きっと子供達はまだ親に一人で電車に乗ることを許されておらず自転車でこの町を駆け回っていると思うのだが重要なのがこの町の住民はこの町を出ることが少なく、この町のみで生活を完結しているということだ。

どんな場所でもきっとそこは誰かのふるさと、これは俺が旅行に行くたびに思うことだが裏を返せばふるさとじゃない場所、誰かの所縁のない場所なんてほんの一握りでどんな場所でも人間は育つことができ、平等に思い出を作り小さな体で小さな町から世界や夢を見ることができるのだ。
人のふるさとが近くにあると考えるとキリがないのだが、きっと都会に電車で通う俺たちが使う空気の違う駅はこの町の子供たちにとってリュックを前に背負うというわけのわからない都会の流行を取り入れる変な大人たちの生産機に過ぎない。

自分でも何を言っているのかわからないが山梨に住んでいた時から俺はリュックを前に背負うという到底理解しがたい都会での生活に憧れ、満足してきた。

最近は大人になると言うことについて今の時期関係なく考えるようになった。
都会の人間に憧れるよりももっと根本的な存在に僕は昔から憧れて来た。
それが「大人」である。
事あるごとに今に至るまでの俺はいつか必ず大人になるにも関わらず常日頃から大人の真似をしてきた。
服装にしても小学一年生の頃はわざわざ早起きをして兄の中学校の制服であるブレザーを着て大人の真似をしていた。
理由は大人の着ているスーツに似ているからだ。

〜〜この辺りから僕が眠くなってしまったので文章がおかしいですがあえて校閲しないで投稿します〜〜

12月に行われた高校のキャンパスの文化祭で俺は実行委員で当日のほとんどの時間はステージや人前に立ち司会などをして運営スタッフを全うしたのだが、その時もやはり実際には存在しない理想の何かに近い形で振る舞いやら当日に至るまでを過ごしていた。

大人を常に過信し、それに向かって走って着た俺はあと5年も経たないうちに大きな大人の定義である年齢を通り過ぎる。

大人になったらどうなるのだろうか...なぜ俺は今まで待っていれば必ず昇格できる存在に向かって成りすまそうとしてきたのだろうか...今のこの年齢らしいことを考えなかったのだろう。

僕が中学の頃に考えていた概念を一つ紹介しよう。
誰かに嫌われていない世代なんてなく、きっと誰もが自分の年齢にコンプレックスを持って過ごしている
と中学の時まではずっと思っていた。
僕は今のように高校生活を充実しているとは全く思っていなかったのでこのようなことを考えていたのだが(今も当時の考えに至る理由はわかる)ふと思い出してみたら生まれてから初めて早く時が経って欲しいと思わなくなった、早く大人になりたいと思わなくなったのだ。

当時の自分はどちらかと言うと早く高校生になって東京に暮らしたいと思い、未来のことばかり考え、当時の生活を軽く放棄していたとなると少しわかりやすい説明になるだろうか...?

ただ、未来にすがらなくなった次は過去にすがらないことだ。
「あの時出来たから」と過去の栄光にすがるより見つかりにくいものは「俺は成長した」という自信を通り越した成長したと言うことが大きな自慢になることである。
過去の功績ではなく、今新しい何かを作るために努力をしていると言うことを大事にしていかなければならない。そして未来のことについても今の努力が実った後の評価にすがるのではなく次は何に対して努力するかを考えるくらいの気持ちで日々の生活に臨んで行きたい。

〜〜翌日の夜書き足し〜〜
僕はBUMP OF CHICKENの続くだらない唄という曲を聞いてまた大きく心が動きました。
その歌詞の一部分をここに抜粋します。

電車に乗って 2時間ちょっとの都会に出て来た 小さなそのプライドを 見せてやろうとした 電車に乗って 2時間ちょっと いつでも帰れると 軽く考えていたのが そもそもの間違いだった ここで手にした「輝かしいどうのこうの」に それよりも輝かしい あの日が 見事に壊されていくようで 怖くって 何度も確かめてみる

少し長い抜粋だがこの曲は曲全体において僕はこの言葉を多用しがちだが「衝撃」を受けた。
本当さ、本当に胸の奥に響くんだよ。
この感覚を僕は大事にしたい。
昨日の夜書き切ろうと思ったのだが途中で文章がおかしいのに気づき何も生まれないと思い寝てしまって今よくわからないままほったらかしてしまったので文字通り「赤裸々」に投稿する。

追伸、
この三月に何かを卒業された方へ、おめでとうございますの意味がわかる方もわからない方も、あなたの何かがあなたの中で修了課程に達したことについてお祝いの言葉を申し上げます。
これからは過ぎる毎日ではなく過ごす毎日を送りましょう。
写真は近所で撮影した桜並木です。
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